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人間合格ブログ

サードウェーブ系ブログです。

「高い物を買いたい」という話

学生時代はケチな方で、水やお茶を買うことに抵抗感があった。

しかし、就職して口座の残高が安定して増えるようになると、

何の違和感もなくコンビニでハーゲンダッツを買うようになった。

まったく悪いことだとは思っていない。

社会人3年目にしてやっと、自分に合うカネの使い方が分かってきたという感覚がある。

 

近年ミニマリスト的な生き方が流行っているが、わたし個人としては「気持ちよくカネを使いたい」という思いが強い。

コンビニで買うアイスも、書店に並ぶ本も、量販店で買う家電も、すべてどこかの誰かの仕事の成果である。

店頭に並ぶまで、いったいいくつの案がボツになり、ああでもないこうでもないと言われてきたのか、裏側を想像するだけで面白い。

何ヶ月かけて作られた商品なのか知るよしもないが、私はその仕事にカネを払いたい。

(と思っているので、必要以上に値切ろうとする人間が苦手だ)

 

安い商品が悪いということではないが、良い商品はそれなりに高い。

高い商品に触れるということは、プロの仕事に触れることと同義だ。

若いうちに高い商品に触れ、プロの仕事を感じ、そのエネルギーを自分の仕事に反映する。

贅沢をしない「ていねいなくらし」にも惹かれるが、私はまだカネを使い足りない。

 

社会人になってから「年間100万円以上貯金する」と、決めて継続していたのだが、

今年度は達成できなくてもいいかな、と思っている。

私が週に2回185cmになる理由

むかしから身長がコンプレックスだった。

12歳、168cmでランドセルを背負っていた。

16歳、175cmのとき「おまえがあと10cm低かったら考えたのに」と当時好きだった人に言われた。

18歳、森ガールになりたかったが、177cmに似合う可愛い服は存在しなかった。

19歳、ガールズバー的なところで働くも、制服が小さすぎて難儀した。

(同じ177cmである石田純一ふかわりょうあたりの女装姿をイメージすると、その難しさが分かるかもしれない)

しかし中高大と女子校で、170cm超えの女子が少なくなかったおかげか、変に気負わずに済んだ。

 

問題は、社会人になってからだった。

「ほとんどの男性は、女を外見で判断している」ということに気付いたのは新卒1年目の頃だった。

うすうす気付いてはいたが、男性にとって、デカい女は恋愛対象になりにくい。

その頃から、ヒールがある靴を履くことを遠慮するようになった。

長崎に転勤になると、余計に身長が目立った。

(東京は人口が多い分、マイノリティでも目立たない)

 

177cmという身長で3cmほどの仕事用パンプスを愛用していたので、

しばらくわたしは180cmのままだった。

 

しかし、ふとしたきっかけで出会った男性の些細な一言で、価値観が大きく振れた。

 

「なんでヒール履かないの?もったいないよ!!」

 

今まで「俺は身長気にしないから、ヒール履いていいよ!」という上から目線な言葉しかもらえなかった人生である。

「あんたの許可がなくてもヒール履きたいんですけど?」という心の声はいつも殺していた。

自分に自信がなかった私は、さきほどの男性の、デカいことを全肯定するその言葉に、正直、惚れてしまった。

グラグラきた。理由を聞いた。

 

「絶対似合うやん!なんか嫌やねん。背が高い子がぺったんこ履いてるの。ってか小さい人より絶対ヒールを活かせるからね」(メールの原文ママ

 

これですよ。これ。自分のコンプレックスを肯定してくれる人間は必ずいる。

笑われることを、目立つことを、恥ずかしがっている場合ではない。

ということに改めて気付かされ、その言葉をいただいた日から「週に2回はヒールを履こう」と決意した次第。

(毎日8cmヒールはしんどいので、まずは2回から……)

 

というわけで、街中でデカい女を見かけても、ガン見しないでね。

長所を伸ばして生きていこう。

 

※ちなみに、惚れたら突撃して玉砕するタイプなのでその後即失恋した。

なぜ私はアウトプットすることができないのか

・自分の実力を認めたくない

・バカだと思われたくない

・痛い人間だと思われたくない

・何も考えていないことを知られたくない

・批判されたくない

今日も言い訳ばかりして、逃げているわけだ。

 

奥田民生になりたいボーイ出会う男すべて狂わせるガール』を読んだ。

編集者である主人公の気持ちは痛いほどよく分かる。

 

ディレクションやりたいなら、プレイヤーとして一流になってくださいね。二流じゃダメですよ」

1年前、同僚たちとのカラオケの最中、年上の部下が残した言葉が脳みその裏側にこびりついている。

 

私はあれからしばらくプレイヤーになりきれない営業を続け、

そしてライター経験がないまま、記事の編集に携わることになった。

いまだにどこかで「指示する側は、指示される側よりもすべてにおいて優れているべきた」と思い込んでいる自分にとって、この立場はなかなか堪える。

 

そろそろ「編集者として、ライターと一緒に仕事をする力が自分には足りていない」ということを認め、改善を図らなければ前に進まなくなってきた。

ダサいとかキモいとか痛いとかバカとか気にしている場合ではない。

 

文章は慣れだ。とにかくアウトプットして、多くのフィードバックをもらった人間が勝つ。

そのアウトプットがどれだけ低レベルでも、数多くの言い訳を並べ、アウトプットしないよりは遙かにマシだ。

 

ということに、気付いてはいるけれど、実際こうやってキーボードに両手を置くと、

指は動かないわけで…。

でも、逃げずに1日30分、まずは続けようと思っている。

KDDIを退職してビズリーチに入社しました

入社3年目を迎える直前の2015年3月31日をもってKDDIを退職した。

ほとんどの人には退職した経緯や転職活動中の話をしていない。

ビズリーチに入ってしばらく経つこともあり、ここで人生を振り返ってみる。

なぜKDDIに入社したのか

・コンテンツに携わりたい(本・映画・音楽等の販促に携わりたい)

 小学生の頃から、ずっと死にたいと思っていた。小学4年時にクラス全員に「死にたいと思ったことがある人アンケート」を取った。結果、とても”少ない"とは言えない数の同級生が質問に「YES」と答えた。

 そのアンケートをクラスの学級新聞で取り上げたところ、担任に怒られた。当時から問題児だった。中学、高校と進むにつれて希死念慮は強くなり、やがて殺意となって自分の内から外に向けられるようになった。秋葉原で無差別殺人を起こした加藤の気持ちがわかった。というか、あの事件が起こった瞬間秋葉原にいた。自分が加藤になっていたかもしれない、という強烈な衝撃は忘れられない。

 高校は当然のように遅刻していたし授業は全部寝ていたし、ひどいときはわざと電車をのりすごしサボった。両親がお互いを罵倒する怒鳴り声が響く家から出たくて、バイト禁止の学校に隠れて働いた。グレにグレまくっていた当時、鞄の中にはいつも本とiPodが入っていた。友達が少ない自分にとっての唯一の救いだった。中学生の頃から書いていたブログにはこう記してある。「本か音楽に関わる仕事に就きたい」

・インターネットで選択肢と可能性を広げたい

 当時からインターネットに依存していた。学校で自分の気持ちを分かってくれる人間はほとんどいないけど、インターネットにはたくさんいる。初めて出来た恋人はmixiで知り合った2歳上の人だった。インターネットで友達もできた。オフ会を繰り返した。知らないことをたくさん教えてもらった。できることが増えた。

 大学に入り、インターネットで知った他大学のサークルに入った。毎週定期的に集まって、くだらない話ばかりしていた。ひきこもりだった自分が、いつのまにか大学も勉強も好きになっていた。学ぶことが楽しすぎて他学部の授業だろうが他大学の授業だろうが構わずもぐりこみ170単位を取得した(成績は良いとは言えなかったが)。

 情報さえあれば、選択肢さえ広がれば、つらい人生も楽しく生きられる。自分がインターネットで可能性を広げたように、同様に困っているひとにも同じ体験を届けたい(いま思うと少し傲慢だ)。そう思った私が就職活動で出版業界、IT業界を視野に入れるようになるのも自然な流れだった。

・大企業→中小企業は行けるけど中小企業→大企業は行けない

 残念ながら、第一希望の会社からは内定をいただくことはできなかった。が、誰でも知っている通信大手とコナンやこちかめを扱っている印刷会社から内定をもらうことができた。安定を取るか夢に少しでも近い方を取るか、内定式の直前まで悩んだが、社会人の先輩方に相談したところ「通信大手から印刷会社は行けるけど、印刷会社から通信大手は行けない」という助言をいただいた。また、内定者専用SNSでものすごく気が合いそうな同期がいたことを理由に通信大手へ行くことを決意した。

入社してから

長崎県長崎市に配属された

 入社前の配属面談で面接官に「希望の勤務地はありますか?」と聞かれたので、寒いのが嫌いな私は「南の方に行きたいです!」と答えた。

そして入社して3ヶ月が経ち、いよいよ配属。長崎支店に配属された。「南の方」とは言ったが、まさか希望が通るとは思わなかった。縁もゆかりもない土地だった。

長崎空港は羽田から約3時間/片道15000-35000円。支店がある長崎市内はさらにそこから車で45分。福岡空港からもバスや特急が出ていて、こちらは約90-120分/片道2500-5000円かかる。どちらにしても、遠い。

夏は湿気が多い。はじめて靴にカビが生えた。しかし、魚も焼酎も最高に美味しく、ハウステンボス軍艦島などの観光地も充実していた。さらに、冬の寒さは東京とは質が違うようで、刺すような痛みもなく過ごしやすかった。

・代理店営業になった

 配属され、1ヶ月で担当店舗が決まった。長崎県内で自社商材を扱っている店舗をまわるラウンダーだった。自分で取引先やお客様に直接商品を売るわけではない。商材を扱っている店舗の実績を最大化するため、販促イベントの企画、施策共有、スタッフ教育、商材在庫の管理までなんでもやった。自社の商材そのものが好きだったため、仕事は楽しかった。

・新卒1年目にして22歳~35歳の部下7人を持つ

 数ヶ月経った頃、新設される部署への異動が決まった。該当部署へ異動するのは各県1名ずつ。直属の上司は長崎ではなく、福岡に常駐。全国に45人いる同部署同期のなかに、同じ状況の人間はいなかった。

 右も左も分からないまま、時には泣きながら仕事した。契約社員である部下たちは、半期に一回の面談で更新の有無が決まる。「あいつを切るかどうか、おまえが決めていいよ」と上司から言われたが、新卒1年目にして自分より業界歴の長い部下たちの進退を一人で決めるのは荷が重かった。決断力がない自分に対して嫌気がさし、どんどん自分に自信がなくなっていった。

 部下や他部署の先輩、関係各所の皆様にはたくさん迷惑をかけた。とくに22歳~35歳の部下7人には、本当に申し訳ないという思いしかない。自分の指示に反応しない部下に対し、「あの人はやる気がないから動かないんだ」とレッテルを貼っていたこともあった。長崎にいる別部署の上司に「部下が動かないのを部下のせいにするな。すべては部下を動かせない自分の責任だ。どうやったら動くか本気で考えろ」と指摘され、部下の能力は上司が引き出すものだということを学んだ。

 店舗内シェアが競合他社を抜いたときは本当に気持ちよかった。年上の部下だったがみな可愛くて仕方なかったし、短い間だったが頼りにしてくれて本当に感謝している。業界についてもマネジメントのマの字もほとんど分かっておらず葛藤する毎日だったが、結果的に大きく成長できたと思う。

転職の決め手

・東京に戻れない

 長崎に来て1年も経つと、東京から家まで遊びに来る友人もほとんどいなくなった。そもそも休みが完全週休二日制ではなかったので、土日にどこかへ旅行に行ったり、東京に帰ったりすることも易しくなかった(新卒2年目はゴールデンウィークもお盆休みも仕事だった)。

 朝から夜まで働いていたため、長崎にも友達はいなかった。学生の頃、1人でインドやバングラデシュを1ヶ月半放浪していてもまったくつらさを感じなかったが、それは海外で知り合った日本人と腹を割って話す機会があったからだということが分かった。

 東京の同期は酒を飲みながら話す相手がいる。なぜ自分だけが年上の部下を抱え、仕事を相談する先輩も上司も同じ県にいないのだろう。いつ東京に帰れるんだろう。友達に会いたい。本音で話したい。イベントに行きたい。東京の文化を日常的に傍受したい。

 父親が高齢ということもあり(47歳でわたし、49歳で弟を生んでいる。男の人は元気だ)、そろそろ親孝行(結婚の報告、出産、子育て)もしたいと考えていたわたしは、1年に1回あるかないかの東京出張が入った際に人事担当者に面談を申し出た。

希望の部署への異動願いを出すとともに、それとなく「何年で東京へ戻れるのか?」と質問した。

「最短でも入社して5年経ってから」人事担当者の口から出てきた言葉が決定打だった。

 優秀でも5年。九州の先輩方の状況を見ていると、東京へ異動できるのは実際7-8年目だった。3年経てば東京に帰れるだろう、と考えていた私の甘さを思い知った。東京オリンピック開催の際は東京にいたいし、そもそも貴重な20代を九州で過ごしたくない。男性なら現地女性をつかまえることもできるかもしれないが、九州の男性と付き合い、結婚して九州で一生を過ごすという選択肢は私の人生にはなかった。

 自分で希望した「南の方」に配属になったあげく退職を考えているのだから完全に自分が悪い。会社には非がない。

 しかし、精神的にも肉体的にも限界がきていた。原因不明のじんましんが全身に出ており、皮膚科や精神科を受診しても完治しなかった。精神科には「あなたの症状は東京に行けば治まるかもね」と言われ、さらに転職意向が高まった。

 転職を決意した頃、また異動が決まった。じんましんが出ていることや精神的にキツいことは長崎にいる別部署の上司に伝えてあった。見かねた上司が別部署への異動を申請しており、それが無事叶ったかたちである。

 別部署は基本的に土日が休みで、上司・先輩が同じ県にいるということもあり、精神的に非常に楽だった。最初からずっとこの部署であればまだ退職を決意していなかったかもしれない。が、やはり東京に帰りたいという思いは強く、2014年12月、私は転職エージェントに登録した。

・先輩がつらそう

 地方→東京への転職活動は厳しかった。何より交通費がかかる。そこで、まずはインターネットで転職に関する情報を集め、福岡のリクルートエージェントに相談しにいった。

 そもそも”第二新卒"とはなんなのか。今の仕事を続けるメリットはあるのか。新卒2年目と新卒3年目の市場価値に違いはあるのか。本当にいま転職すべきなのか。年収は維持できるのか。全ての質問に丁寧に答えてくれたエージェントさんには頭が上がらない。

 「”第二新卒”という明確な枠はない。"第二新卒歓迎”は未経験者でもいいからやる気がある人がほしい、くらいの意味。今の業務内容であれば今転職しても1年後に転職しても市場価値は変わらないと思う。中途採用の書類通過率は2割だけど、面接までいけばこっちのもの。ただ、年収は下がると思います」

 エージェントからこう言われてから、覚悟を決めて転職活動を開始した。業務後に近所のマクドナルドにこもり、職務経歴書を書き、転職先を探す日が続いた。

 

 職場の先輩と話しているときに「仕事にやりがいを求めるか?」という議論になることがたびたびあった。「やりがいは求めない」「そもそも仕事が嫌い」「楽しいと思ったことがない」「カネがいいから続けてる」という声が多かった。むなしいと思った。このサービスいいよね!とかこの商材いいよね!とか業界の話で盛り上がりたかった。仕事が好きで好きで続けている人間と仕事をしたいと思った。

・なりたい自分になれなさそう

 「この先輩のクセ・仕事術・考え方を普段の生活に取り入れよう」と思うことはあっても「この人みたいに生きたい」と思える人はいなかった。人間関係に問題があったわけではなく、むしろ人間として素晴らしいひとばかりがそろっていた。

 「継続は力なり」母親が私によく言い聞かせた言葉だ。もしかして仕事を続けていれば、なりたい自分になれたのかもしれない。ただ、転勤・異動の予定が不明確で、夢を実現するのに何年かかるか分からないという点がネックだった。

 しかし、連日"なりたい自分”について考えているといよいよ分からなくなってくるのだった。転職は現状から逃げているだけではないかと。年収を下げてまで行きたいと思えるような会社も見つからず、転職活動は頓挫しかけていた。

 「中途採用の書類通過率は2割」エージェントの言葉がやけに心に残っていた。

 諦めず、知人友人のツテでせめて書類だけは通してもらおうと思った。転職前提で4名の知人に会った。そのうちのひとりが@ruushuだった。@ruushuとはコミケで知り合った。当時からインド旅に関する本などを自費で出しており、いつか一緒に働いてみたいと思っていた。

ビズリーチに入社したきっかけ

・オフィスの雰囲気がいい

 @ruushuに会ったのはビズリーチのオフィスだった。海がある!オフィスで働いている人たちが明るくて元気で若い!まぶしい!そしてたくさんの本が入った階段状の本棚。図書館ひきこもり系女子なのでこういうのに弱い。一目惚れした。

・やりたいことができる

 @ruushuから今後の方向性と私がやるべき仕事について、一通り説明してもらった。この時点で私の心はほぼ決まっており、ここで働きたいという思いしかなかった。なにより、採用時に職種が決まっており、やりたいことが必ずできるという安心感があった。未経験の編集職ではあったが、まだ間に合う。中学高校時代の自分に誇れる仕事ができると思った。

・面接官が同年代だった

 @ruushuとの面談のあと、役員クラスの方との面接があると聞いていた。役員というからには貫禄あるおじさまだろう…と思っていたら出てきたのは同年代の超好青年だった。まず「なぜ転職しようと思ったか」を聞かれた。上記に書いた通り(なりたい自分になる=やりたい仕事をするためには時間がかかりそうだから)の理由を答え、余った時間で好きな経営者について話した記憶がある。同年代の男性が数千万という金額が動く事業の根幹を握り、面接で採用可否の判断をくだしているという事実に衝撃を受けた。この人から、この会社から人生を学びたいと思った。

いまやってること

・webメディアの編集 

 ということで、ビビビ婚ならぬビビビ転職でわたしは2015年4月1日にビズリーチに入社した。

 今はキャリアトレックのオウンドメディア、日刊キャリアトレック編集部に所属している。編集部は編集長先輩、わたしの3名。そこで日刊キャリアトレックの記事作成、キャリトレブログの記事更新などを担当している。

 日々分からないことだらけで編集長と先輩、各ライター様には迷惑かけっぱなしで申し訳ないという気持ちと、もっともっと勉強して吸収して編集者として一人前になったるで!!という気持ちが半々である。

 編集長が良い意味でうるさく、先輩がやたらとwebメディアに詳しいこともあって、編集部では毎日何かしらネタを見つけては盛り上がっている。楽しい。

・はじめて編集を担当した

 はじめて編集を担当した記事が先日公開された。よければのぞいてみてください。 

www.careertrek.com

そのほか 転職してよかったこと

・東京は最高

 いつでもどこでも誰にでも会える。電車に乗るだけで吊り広告から情報が入ってくる。目でうるさいと感じるほどの情報量。善し悪しはあるが、今の私にはこれが必要だと思っている。何より、知らない人・知っている人関係なく常に人間がそこにいる環境が心地よい。

 このような環境を長崎で作ることができなかった自分に対して少し残念に思う。今後機会があれば、自分と同じような境遇の女性が地方に住みやすくなるようなサービスに携わることができればと考えている。

・地方創生に携わることができる(かもしれない)

 先日、弊社の新しいサービス、スタンバイがローンチされた。はじめはindeedっぽいな?と思ったが、どうやらまったく違うらしい。"採用費ゼロ円革命!"と銘打ったこのサービスは、長崎から帰ってきたわたしにとってとても重く感じた。長崎では「他に仕事がないから仕方なくこの業界で働くしかない」という声を聞くこともあった。

 地方には本当に仕事がないのか?人材業界に入るまで知らなかったが、ひとひとり採用するためにはものすごくコストがかかる。採用に予算が取れない地方の弱小企業は、求人を出せない(詳細はこちらの記事起業家としての大勝負。「採用ゼロ円」化で、人材版のグーグル狙うを参照いただきたい)。結果、本来は存在するはずの需要が表に出ず、仕事がないように見えてしまう。そして地方の人材が流出していく。

 スタンバイのロゴはスポットライトと応援旗を意味しているらしい。スタンバイを企業側や私のような転職者が活用することで、長崎だけではなく、日本全国を盛り上げたいと思った。

 (ふるさと納税も活用したいと思っている)

・なりたいじぶんになれそう

 ・コンテンツに携わりたい

 ・インターネットで選択肢と可能性を広げたい

 冒頭で記載した上記2点について、やっと実現の道が見えてきたように思う。今はまだまだでも、努力次第でどうにでもなりそうだ。ちなみに、今は死にたいとあまり思わなくなった。将来的には子どもも産みたいし、ばばあになって友人らと笑いあいたいと思っている。

 余談だが、「>内定者専用SNSでものすごく気が合いそうな同期がいた」この同期とは案の定ものすごく仲良くなり、入社直後はモーニングコールで起こし合い、ときには2人でデートまでする仲になった。が、彼は入社3ヶ月後に亡くなっている。長崎転勤後も心の奥底にとどまり続けたその存在は、退職後のいまも大きい。もう死にたいとは思わないが、いつか会う日が来ることを楽しみにしている。太宰治が好きだったきみが笑っちゃうよーな話してあげるよ。

わたしがメタル好きだった頃

友人のライブに行った。

自分はピアノ以外の楽器を経験したことがない。
しかし音楽は好きで、高校生の頃からライブに行くことが多かった。
ひきこもりがちで友達も少なかった中学生の頃は音楽と本が唯一の救いだった。

当時はメロスピと呼ばれるジャンルのとにかく速くてメロディアスな音楽や、テクい感じでドラムやギターがドコドコピロピロしてるプログレメタル殺意を感じるメタルばかりを聞いていた。
mixiで知り合った人とラウドパークで会ったりもした。
全身黒い服に真っ赤な口紅が正義だと思っていた。

大学生になると環境が変わったおかげか比較的明るい音楽を好むようになった。
大学生活は最高に楽しく、毎日が飛ぶようにすぎていった。
メタルを聞くことも忘れ、コンテストモデルやサークル活動に勤しみ、所属学部以外の単位を取りまくり(理系でも司書資格を取らせてくれた大学にマジ感謝)、インドにハマった。

そうこうしているうちに音楽への情熱が薄れ、中高生の頃は頻繁に更新されていたiPodのラインナップにも変化がなくなってきていた。
社会人になりその傾向はさらに顕著になった。

地方転勤になり、通学時間片道電車で90分の生活から通勤時間片道徒歩15分の生活になる。
家に帰って音楽を聞く余裕はなかった。
それでも営業車内で流行りの音楽を適当に流すようなサービスに甘んじることで、社会に適応できる気がした。

転職して生活が落ち着いた今ではEDMをよく聞いている。
社会人になってもパンクバンドを継続している友人は、舞台上でとても良い表情をしていた。
ダイブする観客を見ながら、メタルを愛していたあの頃を思い出した。